高知県桂浜にある坂本龍馬の銅像。

坂本龍馬の銅像は全国各地にありますが、この桂浜の銅像が一番有名なのではないでしょうか?

 

正直、歴史上の偉人に直接会うことができない私達は、肖像画や銅像からイメージを作り上げている部分が大きいと思います。

そのため、どういった銅像が作られるかがイメージ形成の大きな要因になり、中には武将や志士のイメージダウンにしかならないような、残念な銅像もたくさんあります。

 

そう考えると坂本龍馬の威厳のあるイメージを持たせてくれているのがこの高知県桂浜の銅像と言えます。

 

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右手を懐に入れている理由

さて、そんな桂浜にある坂本龍馬の銅像ですが、その姿は懐に入れた右腕で台座に寄りかかり、真っ直ぐ太平洋を眺めているというものです。

 

高知県桂浜の坂本龍馬の銅像写真

 

では、何で龍馬は右手を懐に入れているのかご存知でしょうか?

実はこの桂浜の銅像は、有名な坂本龍馬の写真の姿を元に製作されているので、この写真を撮った時に何故右手を懐に入れていたのかということがポイントになります。

 

上野彦馬撮影の坂本龍馬の写真

 

幕末の志士たちの写真は、ばっちりとポーズを決めたものが多く、色々なポーズで写真に写るのが、この時代の流行だったと言ってしまえばそれまでです。

この写真を撮った上野彦馬に促されただけなのかもしれません。

 

しかし、右手を懐に入れている理由についての、いくつかの説があるので、今回はその説をご紹介したいと思います。

 

ピストルを持っている

龍馬は剣術の腕前が優れていたと言われていますが、刀を抜くことはなく、懐にはいつもピストルを忍ばせていたと言われています。

 

そのため、この写真を撮った時も懐にあるピストルを握っていたのではないかという説です。

 

万国公法を持っている

坂本龍馬は万国公法という、国際法の本を懐に入れていたのでその本を持っているのだという説。

 

懐中時計を持っている

龍馬はいつも懐中時計を持ち歩いていたとされているため、懐中時計を持っているのだという説。

 

ナポレオンの真似をしている

当時の幕末の志士たちの中にはナポレオンに対して憧れを抱いていた人物が多かったようです。

そのため、ナポレオンの真似をして写真に写ったのでは?という説もあります。

 

元となったのが下記の肖像画だと思いますが、確かに言われてみればという感じもしませんか?

 

ナポレオンの写真

 

寺田屋で負った傷を隠すため

そして個人的に一番納得のいく理由がこの理由です。

坂本龍馬は、薩長同盟が締結された後、宿である寺田屋に戻り、長州藩士の三吉慎蔵と祝杯をあげていた時に、伏見奉行所の役人に襲撃されています。

 

この時に龍馬は、高杉晋作から送られたピストルを使い、脱出に成功しますが、役人と小競り合いになった際に、左右の親指を切られる重傷を負っています。

親指だけでなく、左手の人差し指も切られ、後に指の自由が利かなくなったという話もあるので、傷はかなり深かったようです。

 

そして、銅像の元となった写真が撮られたのは、この事件の後なので、寺田屋で負った指の傷を隠すために、右手を懐に入れ、左手も隠した姿で写ってるというものです。

 

まとめ

普通に考えてみると、写真を撮る際にピストルや懐中時計などを持っていたとしても、それを懐で握りしめておく必要はありません。

なので、個人的には持ち物説というのはあまり的を射ていないような気もします。

 

そう考えると、寺田屋で負った指の傷を隠すために、両手を隠すようなポーズを撮ったという方が自然です。

現代の私達も、何となくポケットにてを入れて写真を撮ったりしますが、もしかするとそんなに意味を持たずにとったポーズだったのかもしれません。

 

ただ、そのポーズの理由をつけるのであれば、やはり寺田屋で負った傷を隠すためという理由に私は1票です。

皆さんはどう思いますか?

 

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